一般公開用「学光」冬号
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LIGHT OF LEARNINGvol.341979年9月 通教生との記念撮影1980年8月12日 第5回 学光祭高尾山での記念撮影(創価教育研究所所蔵)み出していただこうと思い、通教生との対話を続けました。第3回入学式の前に、創立者が“創価大学は、入学式、滝山祭、創大祭、卒業式に皆が集って、うねりを起こしていくんだ”と語られ、実際に創価大学は創立者のもとに集うリズムから発展をしてきておりました。私は、通教生も創立者と心を合わせていくことが大事だと考え、職員として初めて迎えた1978年の創大祭記念フェスティバルに通教生の参加枠をお願いし、その参加者などで第1回通教生大会が開催されました。創立者は、集った通教生と記念撮影をしてくださいました。 5カ月後の1979年3月の卒業式の折、いよいよ1期生が4年生を迎えるにあたり、創立者は通信教育部長に「1期生は何人卒業するんだ」と聞かれ、「100人ぐらいは・・・」と答えると、「そんなに甘くない。30人卒業すればいいだろう」と話されました。それからは、初の卒業生誕生を前に、創立者ご自身が何度も通教生を励ましてくださいました。8月には夏期スクーリング閉講式終了後に代表メンバーと記念撮影、9月には秋期スクーリング参加者と記念撮影、そして11月には1000人が参加した第2回全国通教生大会に出席してくださいました。 卒業に向けて、レポートが大量に残っていた人も、スクーリングが残っていた人も、卒業に向けて必死に頑張りました。そして迎えた1980年3月、第一回卒業生229人が誕生したのです。そこには、創立者と“信”を“通”わせた一人一人の奮闘がありました。 そして、第1回卒業生誕生の5カ月後の第5回学光祭に創立者をお迎えすることができたのです。創立者は、「かりに、卒業しなくてもいいではないですか。もちろん、できれば全員卒業してもらいたい」と温かく包み込んでくださいました。 1984年に行われた第9回学光祭に、創立者は「来年は、創価大学創立15周年にあたります。ゆえに、来年の学光祭は、最高に盛り上がった行事の祭典としてください。私も来年は、万障繰り合わせて出席させていただく決意であります」とメッセ―ジを送ってくださいました。11月の創大祭で光友会が発足、翌1985年3月には、卒業生が累計1000人を突破しました。そして迎えた1985年8月の第10回学光祭は、創立者のもとに6000人の通教生・卒業生が集って盛大に行われました。終了後に創立者が、「私が考えていた通りの通教になったな」と語られたと聞き、これ以上の喜びはありませんでした。 この第10回学光祭を終えた9月、私は通信教育部から異動となりました。 1998年に名古屋で創価教育の展示を見ていた時のことです。高尾山頂で牧口先生と白金小学校の児童が写った写真に目が留まりました。そして、この写真の提供者は、白金小学校卒業生で、通教に特修生として入学、正科生となって最短で卒業した藁科友弥さんであることがわかりました。後日、仕事終わりに夕暮れと競争するように高尾山の山頂に向かい、撮影場所を特定しました。創立者にこのことをご報告したところ、1週間後の創大祭で「私は、牧口先生が八王子に来られていたから、創価大学を八王子につくったんだ」と話してくださいました。その後も、牧口先生のことを調査してご報告すると、創立者は心から喜んでくださいました。通教生の皆さんが創立者に卒業を誓い、レポートに取り組むように、私は牧口先生のことを発掘し、創立者に報告のレポートを提出していこうと決意しました。 創立者は、通教開設20周年特別寄稿の中で、牧口先生は北海道から上京後、女学校講義録の編さんをされていたと紹介してくださっていますが、当時、牧口先生がどんな通信教育をされていたのか、いつ設立され、どんな団体だったかわかっていませんでした。そこで、牧口先生が勤めていた筑波大学の前身の学校の資料を調べ、大日本高

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