学光Vol.9 冬号(一般公開用)
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第3回連載第3回 創価教育と通信教育の歴史 創価大学非常勤講師岩木 勇作19戸田甚一(後の戸田城聖)は、1900年2月21日に石川県江沼郡塩屋村(現在の加賀市塩屋町)で生まれました。1904年には、家族と共に北海道の厚田村(現在の石狩市厚田区)へ移住しています。1906年には、厚田尋常高等小学校尋常科に入学し1912年に同校尋常科を卒業しますが、ちょうどこの時期に、6年制の義務教育が成立しました。1900年の小学校令改正によって保護者は学齢児童を就学させる義務を負うことになり、公立小学校の授業料は原則無償になったことで、学齢児童の就学率は9割以上になりました。小学校の普及と就学率の上昇を背景に、1907年の小学校令改正で義務教育の期間は4年間から6年間に延長されます。甚一は尋常科を卒業後、高等科に入学。1914年に高等科を卒業した後は、厚田村で家業を手伝い、その後、家族の勧めで札幌の小六商店に入社します。小学校を卒業した14歳から18歳までの間には、商業的大成を志した甚一の人知れぬ奮闘がありました。最終的には商業で身を立てたいのですが、目先の進路として、学問を修めて教員の道を行くという選択肢もあり葛藤しています。また、1914年に日本は第一次世界大戦に参戦し、1918年に大戦が終結しました。世界の動乱の中で、働きながら学び、人生の分岐路で懊悩し、自分の使命の道を切り開いていく軌跡が彼の手記には刻まれています。1917年に尋常小学校准教員検定試験を受験し合格。1918年4月に小六商店を退社した後は、夕張町で小学校の教員を務め、尋常小学校本科正教員検定試験にも合格しましたが、向学心のまま1920年に上京。この頃から甚一は自身のことを城外と名乗りました。上京後、東京での職を得るために当時西町小学校で校長を務めていた牧口常三郎と出会うことになります。この出会いから、数々の苦難を共にした牧口と戸田との間には師弟関係が形成され、戸田のその後の人生を導くことになりました。小学校の教員として職を得る傍ら、受験予備校に通い、1922年に高等学校高等科入学資格試験に合格。小学校を退職後、牧口の助言により、幼稚園の一室を借りて補習塾を始めます。1925年に中央大学予科第一部に入学し、間借りしていた幼稚園の近くに、補習塾の建物を立てて「時習学館」を開設。1928年に中央大学予科第一部を卒業し、本科経済学部に入学。1927年頃から新聞等では中等学校入学試験の「入学難」「試験地獄」が盛んに報道されるようになります。そして、文部省は1927年に中等学校の試験を全廃し「考査」に改め、入学者の選抜は、出身小学校長の報告書である「内申書」、口頭試問による人物考査、身体検査の3つの方法で行われることになりました。この変更によって「試験地獄」が終わることはなく、新たな混乱も生み出しました。戸田はこの状況に対して1929年に『家庭教育学総論 中等学校入学試験の話と愛児の優等化』(城文堂)で一石を投じました。1930年3月に牧口の教育学理論の普及を支援する創価教育学支援会が発足した頃、戸田は中央大学を中退しています。戸田は『創価教育学体系』の編集・出版に全力を以て応えました。また同年6月には、ベストセラーとなる『推理式 指導算術』(創価教育学支援会)を出版しました。同書背表紙タイトルの「推理式 指導算術」の上部には「創価教育学原理による」という文章が記載されています。同年11月に『創価教育学体系』第1巻(創価教育学会)が出版されますが、その前に、創価教育学を応用した成果が戸田の手によって、一早く世に送り出されているのです。『推理式 指導算術』に序文を寄せた牧口は次のように述若き戸田城聖通信教育部は2026年に開設50周年を迎えます。本連載では、通信教育部50周年に先立ち、改めて、創価教育と通信教育の結節点である牧口常三郎、戸田城聖、池田大作という人物を歴史的な視点から深掘りし、創価教育における通信教育の意義を明らかにしていきたいと思います。創価教育と通信教育の歴史若き戸田城聖とその時代

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