学光Vol.9 冬号(一般公開用)
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<参考文献>文部省編『学制百年史』帝国地方行政学会、1972年『戸田城聖全集』第1巻、聖教新聞社、1981年『牧口常三郎全集』第9巻、第三文明社、1988年竹内洋『立志・苦学・出世―受験生の社会史―』講談社現代新書、1991年菅原亮芳「「独学」史試論―中学講義録の世界をめぐって―」(寺崎昌男編『近代日本における 知の配分と国民統合』第一法規、1993年)佐藤秀夫『教育の文化史1 学校の構造』阿吽社、2004年天野郁夫『学歴の社会史―教育と日本の近代―』平凡社、2005年池田大作『青春対話1 普及版』聖教新聞社、2006年天野郁夫『増補 試験の社会史―近代日本の試験・教育・社会―』平凡社、2007年塩原將行「戸田城外著『中等学校入学試験の話と愛児の優等化』(1)~(3)」(『創価教育』第3~第5号、創価教育研究所、2010~2012年)「創価教育の源流」編纂委員会編『評伝戸田城聖』上下巻、第三文明社、2019~2021年べています。「余の説かんとする所は、理論上の確信に止まつて其の真理の実証は未だ余の企図する能はざる所なりしも、兼て余の学説を支持せられたる戸田城外氏が多年の経験を包容せる本書によりて我学説の万遺憾なき実証と普遍性を見しは余の最も愉快とするところである。」(『牧口常三郎全集』第9巻、204頁)。入学試験と学歴主義の時代日本は「入学試験」の国と言われています。中等教育から高等教育まで上級学校への進学に入学試験がつきまとうのは日本特有のことのようです。主な理由として2つのことが挙げられます。ひとつ目は小学校から大学まですべての段階の学校が一斉に作られてしまったために、上級の学校はそれぞれ独自に自分の学校の教育レベルに合わせて入学者を選ぶ必要があったこと。ふたつ目は入学定員の問題。つまり、学校教育全体の未発達による過渡的な選抜の方法として入学試験が始まったということです。そして、明治末頃には入学試験が学歴主義と結び付き、永続的な制度として根を下ろしていきます。学校の発行する卒業証書(学歴)は、企業によって採用等の基準として利用されるようになり、企業への就職をめざす若者は、よりよい学歴を求めて学歴獲得競争の中に身を投じていきました。こうして入学試験が学歴獲得競争の場に変質していきます。明治末期から大正初期には高等小学校を卒業して上級学校に進学するのは2割程度でした。中等学校に行きたくても、お金も時間も無い高等小学校卒業生のエネルギーのはけ口として、働いて学資を得て学問をする「苦学」、中学校講義録などの通信教育による「独学」のブームが起こります。とはいえ、どちらもその多くが脱落していく困難な道でありました。「苦学」の典型的なルートは、上京し遊学するというものですが、当時盛んに出版されていた苦学ハウツー本のおかげもあってか、東京に人のつながりが全くない状態でも「苦学」が可能になっていました。中学校講義録は上京遊学できない者、上京の準備中の者によく読まれていたようです。また、試験の内容が中等普通教育程度である尋常小学校准教員検定試験、尋常小学校本科正教員検定試験のテキストとしても利用されています。若き日の戸田も手に取ることがあったのかもしれません。戸田甚一の学び小六商店での戸田の主な仕事は荷車に商品を積んで得意先の小売店に届けることでした。就業時間の前後で勉強し、働きながら学び続けました。また仕事を大急ぎで終わら20小六商店時代の戸田甚一。 ⒸSEIKYO SHIMBUNせて、野原へ行って荷車を放り出して、寝転んでよく本を読んでいたようです。自分の目的と現状とのギャップに悩む中でも、本を読み続けています。後年彼は、「青年よ、心に読書と思索の暇をつくれ」という文章を発表しますが、その中で次のように述べています。「読書と思索のない青年には、向上がない。青年たる者は、たえず向上し、品位と教養を高めて、より偉大な自己を確立しなければならぬ。それがためには、吾人は、「読書と思索をせよ」と叫ぶものである。(中略)一日を総計すれば、一時間や、二時間の読書の時間は、必ずあるはずである。また、二十分や三十分の思索の時間は、ないとはいえない。ただし、問題はその習慣をつけるか、つけないかということにある。」(『戸田城聖全集』第1巻、158~159頁)。この言葉は戸田の経験を踏まえたものと考えられます。思索するには読書が不可欠です。読書の習慣は、思索の習慣でもあるのです。戸田が働き、思索し、学んだ軌跡は前述の手記にも見受けられます。読書と思索の習慣が戸田の青年時代を形成していったと言えるでしょう。

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