来年度の学修に向けて6「学ぶとは、聖人になるためである」と朱子学の入門書である『近思録』の中で述べられている。聖人というのはここでは「すぐれた人物」のことであり、世のために、あるいは人のために貢献した人物を指す。朱子学というと、江戸時代には御用学問として推奨され、幕府の統治に都合のよい思想であり、礼を尽くすことや上下関係を強調して身分制を支えてきた学問として現在では非難されている。しかし、ここでは「学び」という観点に限定して朱子学では学びをどのようにとらえていたかについて述べてみたい。朱子学では、聖人になるための方法の1つにきゅうり窮理がある。窮理とは、物事の道理をきわめることと定義されている。道理をきわめることによって、善悪を客観的に正しく判断できるようになる。聖人の資質として客観的な判断ができることが必要である。『近思録』では、窮理の手段として読書をあげている。朱子学で読むべきとされている本は『五経』や『四書』であるが、ここでは、皆さんが大学で学んでいる科目の教科書や参考図書などと解釈することができる。『近思録』では本を読むときには「熟読精思」が大切だとしている。「熟読」はじっくりと読むというで、速読することは、間違った読み方になることがある。また、「精思」とはよく考えることで、内容を吟味することで間違った読みを避けることができる。朱子は次のような窮理のプロセスを示している。「博学→審問→慎思→明辨→篤行」 博学とは広く学ぶことで、古典の場合に一人の人の解釈だけでなく、多くの人の解釈を学ぶことで偏った考えに陥らないようにすることである。日頃のレポート作成でも1つの文献を頼りにするのではなく、視点の異なる他の文献を読んで一方的な内容にならないようにすることが大事であろう。審問とは、ここでは、わからない言葉や事例が出てきたときにきちんと調べて疑問を解消することである。文献を読んでいると、初めて目にする専門語や学問分野独特の表現に遭遇する。国語辞典や専門語辞典で意味を理解することなしに、その文献の内容の正確な理解に至ることはない。慎思とは、自分の頭でよく考えることである。ある事象の捉え方について、さまざまな解釈があり、それらの解釈について理に適っているのはどれかをよく考えることである。明辨とは、はっきりと見分けることを指す。いろいろな意見や解釈があるときに、それらの諸解釈や意見をよく考えた結果、自分なりの解釈や判断をすることである。皆さんは論証型のレポートでは明辨を求められていることに気がつくと思う。最後に、篤行とは熱心に実行することを意味する。「自分なりの解釈が定まったら、それを実際の場面に応用しなさい」ということである。自分の得た知識とそれに基づく判断を実際の日常生活にも活かしていくことで、学んだことが自分の体験と関係づけられ理解が深まる。学んだ内容を単なる知識として終わらせないということである。聖人になるためのもう1つの方法として、窮理きょけい敬だけでは不十分で、『近思録』では、さらに居をあげている。居敬とは、常に自分をしっかりと保つことである。朱子学は、人間は本来、善人で、優れた徳や知恵を持っているという性善説を唱えている。自分をしっかりと保ち、本当の自分を見失わないようにすることで、本来持っている善・徳・知恵が発揮されて優れた人物に成長できるのである。通信教育で学び始めた皆さんも、社会でさらに貢献できるように学びたいという向上心や決意があったと思う。その本来の自分を忘れていないかと思い返して、何のために学んでいるのか常に問い続けながら勉学に挑戦していましょう。現在は、教育の方法・資源がデジタル化やオンライン化され、さらに生成AIの登場によって知識が機械によって瞬時に与えられる時代となった。来年度の学修に向けて「学ぶこと」のあり方を再度見直してみてはどうだろうか。(朱子学については次の本を参照した。朱熹&呂祖謙(編著) (2009)『改訂版基礎からよく分かる近思録―朱子学の入門書―』訳解 福田晃市 明窓出版)通信教育部副部長高橋 正学ぶことの再検討を!
元のページ ../index.html#7