Pick Up 通教生海外出張先でも学習に励む大阪本社サンプルルーム(室)にて小学生の時に初めてお会いした創立者の包み込むような温かいお人柄に感動。「社会に尽くしていこう」「世界に羽ばたけ」とのご期待を心に刻みました。大阪電気通信大学電子工学部に進み、将来の進路を模索していた時、教育に携わることに魅力を感じ、教員免許を取得し、中学校の教壇に。学級荒廃が社会問題化していた世相の中で、苦労しながらも、充実した日々を過ごしていました。そんなある日、家族の食事会の折りに、義父から、経営する会社が中国に進出するにあたって「教職を辞めて手伝ってくれないか?」との打診がありました。まさに、青天の霹へき靂れき。悩みに悩んだ末、「世界に羽ばたけ」との創立者の思いにお応えする時が来たのかも知れない、と未知の分野に飛び込みました。義父の事業は、ゴム・プラスチック関連製品の部品製造販売で、国内でも希少な技術を持つ企業でした。時は1990年代初頭。天安門事件の直後であり、中国に工場を持つという構想への日本社会の声は冷たいものでした。工場の稼働開始後には、日本企業の進出を快く思わない現地の人々からいやがらせも受けました。そこで歯をくいしばって前に進むことができたのは、中国でも人間主義の対話の道を貫かれる創立者がおられたからでした。その姿を模範として、人として誠実に現地社会に貢献し、平和の礎を築くことにこだわって進み続けた結果、21世紀を迎えるころには「あの時に中国に行ったのは先見の明があったね」と逆に言われるようになり、現地のスタッフとも強固な信頼関係を築くに至りました。1999年、創業30周年を迎えたのを機に義父の後を継いで社長に就任。ところが、その直後に、大阪の本社工場が放火の被害に遭い全焼するという悲劇に見舞われました。多額の債務を負う厳しい決断もしましたが、工場再建の過程で、国内シェア60%を誇る現在のわが社の主力製品の開発につながるお客様との出会いがあり、債務も完済。“毒を変じて薬となす”貴重な体験を積ませていただきました。15大阪府在住「世界に羽ばたけ」「毒を変じて薬となす」いつでもどこでも学ぶ50歳を超え、「自分自身の生き方が、創立者の人間主義の正しさの証明でありたい」との思いが一層強くなり、学ぶことへの志が高まりました。早稲田大学の人間科学部(通信課程)を卒業、さらに、60歳を超えたことを機に、創大通教経済学部に入学し、学びを継続中です。現役の経営者として、経済理論や分析の手法を学ぶことで、より“経営が見える”ようになり、判断の質が向上していることを実感します。現在、中国に続きインドネシアにも新工場を立ち上げ、海外の各拠点と大阪を行き来する日々です。日本にいる時には、生活動線のいたる所に筆記用具を置き、思いついたことをすぐにメモしてレポート作成につなげています。海外出張中も常にPC、教科書、参考資料を持参し、飛行機の中や、深夜にホテルの部屋で勉学に励んでいます。時には、仕事の関係者との懇親会を途中で抜け出してオンラインの授業を受けたこともあります。「社長はどうしてそこまでするんですか? 今のままで十分じゃないですか?」と問われることもありますが、会社に関わる全ての人々が、仕事を通じて幸福になっていくためには、責任者としての私が成長を止めてはいけない、という思いに支えられています。少年時代に心に刻んだ「世界に羽ばたけ」との創立者の期待にお応えし、世界市民として、ビジネスを通じて、平和の種を植えていきたい。どんな試練も使命と受け止め、共に戦う人々を大切に、負けじ魂と勇気で進み続けます。
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