連載第5回 創価教育と通信教育の歴史第5回 池田太作(後に大作に改名)は、1928年1月2日に東京府荏原郡入新井町(現在の東京都大田区大森北二丁目)に生まれました。1934年には、羽田第二尋常小学校へ入学し、1940年に同校を卒業します。同年4月に羽田高等小学校へ入学しますが、在校中に羽田高等小学校は、萩中国民学校と改称されます。国民学校令により1941年4月から小学校(尋常科6年間・高等科2年間)は国民学校へと変わりました。これは、単に名称の変更に留まらない変化で、初等教育が戦時体制の下に刷新されたことを意味しています。同年12月には太平洋戦争が始まります。国民学校の教育は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」(国民学校令第1条)とあるように、教育勅語に示された国体の精華と臣民の守るべき道(皇国の道)を修練させることを目指すものでした。1942年に萩中国民学校を卒業した後は、蒲田の新潟鉄工所へ入社し、同社内の青年学級で学びます。1945年の終戦後、新潟鉄工所は閉鎖され、同年9月に東洋工業学校(1946年5月に東洋商業学校へ改称)の夜間部に中途(二年次)入学をしました。戦後、価値観や社会の混迷した状況の中で、青年たちは誰もが、どう生きるかという人生の命題に直面することになりました。また戦後直後は、押さえつけられてきた向学心があふれ出ていたような時期でもあります。戦争で多くのものが失われはしましたが、青年たちは寄り合い、読書会を開くなどして飢えた心を満たしていました。池田もその一人でした。地域に住む青年たちと読書サークル「郷友会」で、ある本の一節の解釈で議論したり、彼らと一緒に、地域の住民や子どもが気軽に本を読めるように貸本屋「草水文庫」の運営も行いました。その頃、友人から「生命哲学についての会」があると誘われて参加し、出会ったのが生涯の師となる戸田城聖です。1948年3月に東洋商業学校を卒業後、大世学院政治経済科夜間部に入学し、1949年1月には戸田の経営する日本正学館へ入社します。当時、日本正学館が刊行していた少年雑誌『冒険少年』の編集を担当しますが経営状況が悪化し、誌名を『少年日本』に変更するなど、最善を尽くしましたが廃刊となってしまいます。戸田は、既に会社の主力となっていた池田に対し、大学の夜間部を辞めて業務に注力してもらうよう説得しました。代わりに、学問的なことについてはすべて個人教授するからと申し含めて、戸田と池田の個人教授、いわゆる戸田大学が始まります。池田は、戸田大学を振り返って次のように述べています。「私自身、ほとんどの教育を、私の人生の師・戸田城聖の個人教授から受けました。/約十年の間、毎朝、そして、日曜日は朝から一日中、個人教授を恩師から一対一で、歴史、文学、哲学、経済、科学、組織論等々、万般にわたって受けたのであります。」(池田大作『池田大作全集』第101巻、聖教新聞社、2011年、427頁)。戦後日本の大学通信教育戦後、1947年の教育基本法によって教育の機会均等が明記され、大学等の高等教育に対しても門戸が開かれることになりました。大学通信教育は、同年の学校教育法第45条の「高等学校は、通信による教育を行うことができる」を同第70条より大学に準用させるところから始まり、「通信教育認定規程」「大学通信教育基準」の制定を経て整備されていきます。戦前においても高等教育における通信教育は講義録という形で行われてきましたが、基本的に大学卒業資格を保証するものではありませんでした。1948年には、法政19若き池田大作通信教育部は2026年に開設50周年を迎えます。本連載では、通信教育部50周年に先立ち、改めて、創価教育と通信教育の結節点である牧口常三郎、戸田城聖、池田大作という人物を歴史的な視点から深掘りし、創価教育における通信教育の意義を明らかにしていきたいと思います。創価教育と通信教育の歴史若き池田大作とその時代創価大学非常勤講師岩木 勇作
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