連載第6回〈完〉創価教育と通信教育の歴史 第6回〈完〉文學乃池(「月報」『牧口常三郎全集』第4巻、第三文明社、1982年、牧口常三郎は戸田城聖と共に、創価教育学の樹立と普及を目指し、著述活動や講演等を行っていますが、自身の教育学理論を基にした学校設立についても次のように語っていたようです。「将来、私が研究している創価教育学の学校を必ず僕が、僕の代に設立できないときは、戸田君の代で作るのだと、小学校から大学まで私の研究している創価教育学の学校ができるのだ。」6頁)。1944年11月18日の牧口の逝去後、学校の設立を託された戸田は、少年雑誌事業から撤退し、自身の経営が最も厳しい状況の最中、日本大学の食堂で、大学設立について「大作、創価大学をつくろうな。私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。そのときは大作、頼むよ。世界第一の大学にしようではないか」(池田大作『青春対話 普及版』2、聖教新聞社、2006年、177頁)と語っています。1950年11月16日のことです。その年は、戸田が池田に大学の夜間部を辞めて業務に注力してもらうよう説得し、個人教授を約束した年でもあります。また、1955年1月22日に戸田は「今に学校をつくるよ。幼稚園から大学まで一貫教育の学校を。日本一の学校をね(趣意)」(「創価教育の源流」編纂委員会編『評伝 戸田城聖』下、第三文明社、2021年、273頁)とも発言しています。池田大作は、戸田城聖から個人教授という形で約10年に亘って間断なく薫陶を受けてきました。その個人教授は、始業前の早朝の時間を利用して行われることもあれば、実務の中であったり、移動中であったり、時には休日の歓談の中であったりと、時と場所を選ばず、縦横無尽に、常に戸田の人格と共にありました。これを池田は、戸田大学と呼んでいます。戸田大学の薫陶は、1958年4月2日の戸田の逝去間際まで続けられました。その数年後、牧口、戸田の志を受けついだ池田は、自身の最後の事業を「教育」と定めて、次々と学校設立の具体的な手立てを打っていきます。1964年6月30日に1万人の大学生の前で創価大学の設立を発表し、1965年11月に創価大学設立審議会が発足。1968年に創価学園が開校し、1971年に創価大学が開学します。その後も、池田によって着実に創価教育の学び舎は設立されていきます。池田は、「「創価教育」、すなわち価値創造を掲げた一貫教育のシステムは、私が受けてきた、[戸田城聖による]このような人間教育を、未来の世代にも贈りたいとの願いを込めて創立したものであります。」(『池田大作全集』第101巻、聖教新聞社、2011年、408頁)と、述べています。池田の小説『新・人間革命』第23巻の「学光」の章には、通信教育部の開学と草創期の様子が描かれていますが、出来うる限り歴史的事実としても押さえておきたいと思います。池田は、1969年5月3日に創価大学の建学の精神「人間教育の最高学府たれ」「新しき大文化建設の揺籃たれ」「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」を紹介した後に、夜間部あるいは通信教育部をなるべく早く開設したいという希望を吐露しています。大学の理事を務めた岡安博司氏は、「それから、通信教育部についてです。これは何としてでもつくらなければと考えておりました。創立者のご構想は、牧口先生の創価教育の柱である、半日学校制度を現代に具現化する「通信教育部」の開設を一日も早く実現することにありました。それは、時代が強く求める「生涯教育」にも対応する重要課題だったのです。文部省に行き、経・法・文3学部の開設と同時に、通信教育部をつくることにつき17池田の教育事業創価大学通信教育部の「開学」創価大学非常勤講師岩木 勇作通信教育部は2026年に開設50周年を迎えます。本連載では、通信教育部50周年に先立ち、改めて、創価教育と通信教育の結節点である牧口常三郎、戸田城聖、池田大作という人物を歴史的な視点から深掘りし、創価教育における通信教育の意義を明らかにしていきたいと思います。創価教育と通信教育の歴史池田大作と通信教育
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