一般公開用「学光」春・夏 号
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y 10weivretnITukyoStor創価大学通信教育部はあらゆる可能性を体現できる学び舎です。▼夏期スクーリングで友人と。左側から2番目が佐藤さん、右端が高島さん■克ち日を重ねて 2004年に法学部に入学して間もなく、大学から大量の教科書が届き、完全自習で単位修得を目指さなければならない現実に早くも挫けそうになりました。思うように学習が進まず、捗はかばか々しくない日々を送っていたところ、すぐに転機は訪れました。1年生最初の夏期スクーリングで、生涯の友に巡り合うことが出来たのです。彼の名前は「たかちゃん(高島義行さん)」。京都からスクーリングに参加した一つ年下の同級生でした。彼との合言葉は「克ち日(かちび)」。手を抜きたいとき、気を抜きたいときにこそ、そこからもうひと踏ん張りして目の前の課題を乗り越える、一歩先の目標をクリアする。それができた日は「今日は克ち日だった」と二人で讃え合う。そんな仲間でした。何度振り返ってみても、決して独りきりではやり遂げることはできなかったと思います。「たかちゃん」は現在、京都の不動産業の営業を頑張っており、今でも仲良くしています。 スクーリングが終わると地元に戻り、ガソリンスタンドで夜勤をしながら昼は図書館で学びました。夜勤が終わって、そのまま寝ることもなく作業着のままでスクーリングに参加したこともあります。 そして、学友と励まし合いながら4年間での卒業を勝ち取ることができました。卒業式に参加した母が本当に喜んでくれ、最高の親孝行ができたと思っています。■母親の一言 「創価大学の通信教育があるよ!」この一言が私の運命を変えました。 私は、工業高校を卒業後、愛知県の企業へ就職したものの、20歳のとき、一念発起して受験勉強をはじめました。ところが、仕事と勉強を両立させることの難しさに直面し、将来へのビジョンを見失ってしまいました。そんな時、母が私に創価大学通信教育部を勧めてくれたのです。教育学部、法学部、経済学部と様々な学部がある中で、「法学部」の文字にひと際、目を惹かれました。 というのも、子供のころ父親が酒乱で暴れるようになり、両親が離婚してからは母が女手ひとつで子供4人を育ててくれました。また、小学校6年生のとき交通事故で姉を亡くし、そのときに弁護士の方の仕事を見て、人の悩みや困難を解決する仕事につきたいと思うようになりました。そのため、弁護士になって母と同じように苦しんでいる人のために役に立ちたい、と法学部に入学しました。この時、自分の中で、「カチッ」と歯車がかみ合った音がしました。自分が今やるべきことと、将来の目標とがかみ合った音です。それから入学手続きを済ませるまでに時間はかかりませんでした。■司法試験に挑戦 卒業してからも、私の司法試験への道程は続き、今度は、法科大学院への進学が待ち構えていました。以前の司法試験には、受験資格に制限がありませんでしたが、私が大学在学中に司法制度が変わり、大学院を卒業しなければ受験すらで19Graduate卒業生インタビュー卒業生佐藤 潤一さんきなくなっていたのです。大学院というからには、仕事をしながら通うわけにもいきません。私は、実家から通うことができる久留米大学法科大学院の合格を機に、仕事を辞め、奨学金を受けながら、司法試験に集中する決意を固めました。ところが、周囲は大学時代から真剣に司法試験を志してきた学生ばかりで、飛び交う法律用語もチンプンカンプンの状態でした。そのため、1年次は法律用語辞典を片手に教科書と格闘する日々を送ることになりました。法律の幅広さ、奥深さに何度も挫けそうになりながら、それでも2、3年次には成績も上がり、学費免除、奨学金の返還免除を受けることができました。 そして、卒業して2度目の司法試験受験で、なんと合格を勝ち取ることができたのです。これも、母をはじめ、私を支えてくれた方々の協力あってこその結果だと思っています。■最後に 現在は、佐賀市内で法律事務所を開業し、市民の方々が抱える法律問題と向き合う日々を送っています。また、九州弁護士会連合会「子どもの権利委員会」の委員長をしており、4月からは佐賀県弁護士会の事務局長にも就任しました。 弁護士という職業を志して18年、全ては「創価大学の通信教育があるよ!」という母の一言から始まりました。現在も通教で学んだ日々を忘れることなく、毎日を「克ち日」にするぞと仕事に励んでいます。 最後に、創価大学通信教育部は、あらゆる可能性を体現できる学び舎であるといっても過言ではありません。かけがえのない仲間と一緒に、卒業を、夢を、勝ち取ってください!01Tukyo

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